HOME | 浄瑠璃姫物語(小野お通伝)とは

Princess Joruri's Tale by Otsu Ono

新説 浄瑠璃姫物語(小野お通伝)

浄瑠璃姫物語とは

 
源義経(牛若丸)と矢作の姫(浄瑠璃)との悲恋物語。
承安4年(1174年)、牛若丸は奥州平泉の藤原秀衝を頼って旅を続ける途中、浄瑠璃姫の住む矢作の里を訪れ兼高の家に宿をとった。ある日、ふと静かに聞こえてきた姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えた。しかし義経は間もなく奥州へ向かって旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作の里を後にした。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりだったが、願っても成就することのない恋に耐えきれず、悲しみのあまりついに菅生川に身を投じて短い人生を終えるという悲しい恋物語。 
 

絵画:浄瑠璃姫物語絵巻(岩佐又兵衛)MOA美術館所蔵

「小野お通 岩井条三郎」
画:歌川国貞 演劇博物館デジタル 1820 

小野お通とは

 
お通は、公家の九条種道から和歌や琴、書、絵画、学問などの公家文化を教えられました。織田信長や豊臣秀吉、豊臣秀吉の正室・北政所の側近侍女も務め、侍女たちの教育係を任されました。 
更に、徳川家康からの信頼も厚く、1603年には豊臣秀頼に嫁ぐ、千姫の介添女房頭にもなった。宮中で学問や和歌を女房達に教えたりして、京の文化にも通じた教養ある女性でした。書に関しても、小野お通が書いた「書」は当時を代表する女筆とされ「お通流」と呼ばれ、淀殿や細川ガラシャもお通から習っています。 
大坂の陣で大坂城が落城し豊臣家の滅亡のあと、小野お通は、大坂の陣で千姫を救ったことの働きもあり、二代将軍となった「徳川秀忠」(とくがわひでただ)からも信頼され、仕えることになりました。そして、徳川秀忠と正室「江」(ごう)の間に生まれた女子「和子」(まさこ)が「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)に入内した際に、小野お通は、侍女として共に宮中に入りました。和子に仕えた小野お通は、京の文化や伝統に精通していたため、幕府が朝廷とのやりとりを行なうのに貴重な存在として寵愛されました。封建的で保守的な武家社会で、三英傑の将軍や徳川の2代目と3代目の将軍から信頼を得て、たくましく生きる姿は、現代の私たちからみても驚くべき姿です。