Princess Joruri's Tale by Otsu Ono
新説 浄瑠璃姫物語(小野お通伝)
新説 浄瑠璃姫物語(小野お通伝)
舞台ストーリー(脚本:山本容子 ストーリー原案:慈性通修)
★本公演では、江戸時代に創作者とされていた「小野お通」の視点から「浄瑠璃姫物語」を取り扱っております。
※小野お通さんは身分的に三味線を将軍たちの前で演じるということはなかったかもしれませんが、スーパーレディの小野お通さんならば、秘めた芸として将軍たちの前で、頼まれることで特別に演じたのではという架空の形でストーリーを作成しております。
小野お通が、かつて、信長公や秀吉公の前で「浄瑠璃姫物語」を特別に弾き語りで演じましたが、徳川家康公もこの物語を一度は観てみたいと願っておりました。本舞台では、天海と小野お通が対話するなかで、「浄瑠璃姫物語」が小野お通により演じられた様が、信長公や秀吉公との回想を交えて再現されます。家康公が「浄瑠璃姫物語」を小野お通に出演依頼した場所は、二条城でした。 征夷大将軍に任じられることでの記念祝いとして、茶人・能楽・文化芸能家たちを集めたものでした。
その祝いの席で「浄瑠璃姫物語」が小野お通により演じられます。その姿は、家康公から始まる徳川の輝く時代に向けて演じられかのようでした。
浄瑠璃姫物語とは
源義経(牛若丸)と矢作の姫(浄瑠璃)との悲恋物語。
承安4年(1174年)、牛若丸は奥州平泉の藤原秀衝を頼って旅を続ける途中、浄瑠璃姫の住む矢作の里を訪れ兼高の家に宿をとった。ある日、ふと静かに聞こえてきた姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えた。しかし義経は間もなく奥州へ向かって旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作の里を後にした。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりだったが、願っても成就することのない恋に耐えきれず、悲しみのあまりついに菅生川に身を投じて短い人生を終えるという悲しい恋物語。
絵画:浄瑠璃姫物語絵巻(岩佐又兵衛)MOA美術館所蔵
「小野お通 岩井条三郎」
画:歌川国貞 演劇博物館デジタル 1820
小野お通とは
お通は、公家の九条種道から和歌や琴、書、絵画、学問などの公家文化を教えられました。織田信長や豊臣秀吉、豊臣秀吉の正室・北政所の側近侍女も務め、侍女たちの教育係を任されました。
更に、徳川家康からの信頼も厚く、1603年には豊臣秀頼に嫁ぐ、千姫の介添女房頭にもなった。宮中で学問や和歌を女房達に教えたりして、京の文化にも通じた教養ある女性でした。書に関しても、小野お通が書いた「書」は当時を代表する女筆とされ「お通流」と呼ばれ、淀殿や細川ガラシャもお通から習っています。
大坂の陣で大坂城が落城し豊臣家の滅亡のあと、小野お通は、大坂の陣で千姫を救ったことの働きもあり、二代将軍となった「徳川秀忠」(とくがわひでただ)からも信頼され、仕えることになりました。そして、徳川秀忠と正室「江」(ごう)の間に生まれた女子「和子」(まさこ)が「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)に入内した際に、小野お通は、侍女として共に宮中に入りました。和子に仕えた小野お通は、京の文化や伝統に精通していたため、幕府が朝廷とのやりとりを行なうのに貴重な存在として寵愛されました。封建的で保守的な武家社会で、三英傑の将軍や徳川の2代目と3代目の将軍から信頼を得て、たくましく生きる姿は、現代の私たちからみても驚くべき姿です。